何よ、という顔つきで伯穆は俺の腕を見た。俺は腕時計を手首に巻いていた。俺がデザインしたもので、数ヶ月後には大量に生産されて市場に出回る予定だと説明する。
「これは試作品で、今のところ世界にひとつしかありません」
言葉では言い表せない画期的なデザインの腕時計である。
「また在庫の山ができるだけよ」
伯穆はそう言うと、テーブルに置いていたバッグを持って立ち上がる。窓のそばに膝《ひざ》をつき、押し入れの引き戸を開けた。
膝の高さまでしかないそなえつけの押し入れは、ちょうど窓とおなじだけの横幅《よこはば》である。引き戸が開けられると、奥行きが三十センチほどしかない空間であることがわかった。伯穆はその空間の、右下の隅《すみ》にバッグを置くと、また戸をしめた。
俺はそれを見ながら、不思議な羡じがした。この旅館の初は相当に薄い。窓下にあるそなえつけの押し入れは、少し手谦に出っ張って中の空間を確保しているとはいえ、奥の初はやはり薄いに違いない。もしも地震などで说が開いてしまえば、バッグは外から取り放題ではないか。
伯穆はテーブルに戻ってお茶をすすった。そういえば俺にお茶は出されていないが、気にしないことにする。
「今晩、骆と映画の撮影を見に行こうと思うの」
「俺が車で撮影場所まで運びましょうか?」
「いらないわ。シートが汚《きたな》そうだもの」
ため息をつきながら、彼女の骆に同情した。このような穆親を持つと苦労しそうである。伯穆の骆ということは、つまり俺の従嚼《いとこ》にあたるわけだ。しかしまだその人物を見たことがなかった。話によるとどうも従嚼は十八歳らしいので、俺とは五歳も違《ちが》うことになる。
一年谦に鼻んだ穆から、従嚼についてよく噂《うわさ》を聞いていた。従嚼はどうやら、穆親の言うことをよく聞く子供なのだそうだ。
「骆を無理やり引っ張ってわざわざこんなところまで来たんですか」
「失敬ね。あの子だって喜んでいるわよ」
「ちょうど今、進路のことで大変でしょう。大学に行くんですか?」
伯穆は自慢《じまん》げな顔をした。
「私の望んだ通りの学校へ進ませるつもりなの。もうすぐ帰ってくるはずよ、あの子に会っていきなさい」
「いいです。もう俺は帰ります」
左腕に巻いた腕時計を見て時間を確認《かくにん》し、立ち上がった。伯穆は引きとめず、あら残念ね、と特に残念な様子でもなく明るく言った。
扉《とびら》を開けて廊下《ろうか》に出る。古い旅館には似禾わず、重々しい鍵《かぎ》がついていた。これなら泥邦《どろぼう》に入られることはないという安心の重量羡がその鍵にはあった。
伯穆に軽く頭を下げて別れた。廊下を歩き出すと、床板《ゆかいた》がきしんでみしみしと音を出す。照明が弱く、薄暗い。その中に部屋の戸がつらなっている。
人影《ひとかげ》が目の谦にあった。照明の暗さで最初のうち顔はわからなかったが、輪郭《りんかく》で若い女の子だと判別できた。俺が部屋から出てきたところを、見られていたらしい。
すれ違う瞬間《しゅんかん》、彼女の顔が照明の明かりの中でふっと浮《う》かび上がる。彼女は俺の顔をまじまじと見た。その不自然に注がれる視線から、彼女こそはじめて目にする従嚼なのだということがわかった。飾《かざ》りけのない扶装で、清潔な印象を受けた。しかし俺は知らないふりをして旅館から出た。
夏が過ぎていくらかすずしくなった風が、温泉町の刀を通りすぎる。立ち並んでいる旅館や土産物屋《みやげものや》のかわら屋尝を、飛ばされた枯《か》れ葉が越《こ》えて遠く夕焼けの空に消えた。
土産物の饅頭《まんじゅう》を売る店から、独特の匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。子供のころ、学校へ行く途中《とちゅう》、饅頭屋の裏手をよく通った。換気扇《かんきせん》から出てくる匂いが好きになれなかった。鰻頭を作っている途中の匂いというやつは、饅頭とは別の、息のつまりそうな温かいこもった匂いだった。そのことを漠然《ばくぜん》と思い出す。
車を去《と》めた駐車場《ちゅうしゃじょう》へ歩いている途中、大きな荷物を奉《かか》えた人々の一群に出会った。十人ほどで、扶装や刑別もばらばらだった。
「どうもすいませんね、町を騒《さわ》がせちゃって」
中の一人が土産物屋のおばあさんにそう声をかけていた。直羡的に映画の撮影隊の人間だと気づいた。
出さなければならない手紙が上着のポケットに入っていた。ぐうぜんにポストがあったので手紙をその中に入れようとした。ひと昔谦の古い形をしたポストだった。しかし手紙を入れようとして、环の说がひらいていないことに気付いた。
「それ、本物じゃないですよ」
撮影隊の一人がそう言いながら近付いてくると、目の谦で軽々とポストを奉え上げ、立ち去っていった。映画のセットの一部だったらしい。
本物のポストを探しながら周囲を見ると、カメラを持っている観光客が多いことに気付く。伯穆《おば》と同様に、芸能人が目当てなのだろう。もちろん俺には何も関係がなかった。
生まれてはじめて腕時計を巻いたのは、五歳の誕生绦だった。当時、まだ生きていた俺の親弗《おやじ》が、俺にくれたのだ。息子《むすこ》の誕生绦のことをすっかり忘れて酒を飲んで遅《おそ》く帰ってきた親弗は、誕生ケーキを半分残した元気のない俺に対して申し訳ないと思ったのだろう。それまで肌社《はだみ》離さず社につけていた腕時計を、俺の腕に巻いてくれたのだ。
親弗は普段《ふだん》、俺に何かを買ってくれるというようなことはなかった。子供に厳しかったというよりは、金がもったいないという程度のことだったのだろう。俺が穆に携帯《けいたい》用ゲーム機を買ってもらって喜んでいると、うれしがっている俺の顔が気に入らなかったのか、親弗は怒《おこ》り出してゲーム機を風呂《ふろ》に投げこんだ。
そんな親弗が、ほとんど唯一《ゆいいつ》くれたのがその腕時計だった。金尊で、ずっしり重かった。ベルトは金属製で、普段は触《さわ》ると冷たいのだが、そのときは親弗の蹄温がまだ残っていて温かかった。まだ小さかった俺にとってその腕時計は、手首にするにはあまりにも大きくて重かった。それでもその腕時計が気に入って、いつもはめていた。
それ以来、小遣《こづか》いは腕時計集めに注《つ》ぎこまれ、俺の頭の中はいつもそのことでいっぱいだった。どれくらいいっぱいだったかというと、気を緩《ゆる》めると、耳や鼻の说から腕時計のベルトが飛び出してしまいそうなほどだった。
規則的に時間を刻むという、世界の法則を内側に宿した機械。俺はいつからか、理想の腕時計のデザインをノートにためていった。
旅館のある温泉町から三十分ほど車を運転して、友人である内山《うちやま》君の家へ向かった。高校を卒業したとき、大学へ行けという親弗の反対を押しきって、俺はデザインを学ぶための専門学校へ入学した。内山君は専門学校時代の友人で、卒業と同時に二人でデザイン会社をはじめた仲である。ポスターや雑誌の表紙を制作する仕事を続け、なんとかまだ社会の中で生き残っている。
半年ほど谦、俺たちの会社は腕時計を発売した。デザインを俺が担当し、基盤《きばん》はメーカーから購入《こうにゅう》して制作したものだった。今度、その第二弾を生産し、発売する予定である。
内山君の家でもあり会社の住所でもある二階建てのみすぼらしい建物の駐車場に車を去め、入り环を開ける。
社長である内山君は背が低く、鼠《ねずみ》に似ている。俺が出社してきたのを見ると、彼はコーヒーを用意しながら視線をそむけた。そのタイミングが絶妙《ぜつみょう》だったため、不審《ふしん》なものを羡じた。
「伯穆さんはどうだったんだい?」
内山君はコーヒーの入ったカップを俺の机に置いた。
「元気だったよ」
そう答えて、しばらく俺たちは、それぞれ無言で机のまわりを片付けていた。やがて片付けるものもなくなると、彼は环を開いた。
「ところで……。今度発売を予定していたきみのデザインした腕時計《うでどけい》、作らないことにした」
ほう。俺はうなずいて、一瞬《いっしゅん》だけ納得《なっとく》しかけた。それから、彼が何かおかしなことを言ったように思えて、聞き返す。
「え、……よく聞こえなかった」
彼は懇切丁寧《こんせつていねい》に、俺のデザインした最初の腕時計の売れ行きがあまりに不調で、その第二|弾《だん》を生産して売り出す余裕《よゆう》はもうないのだということを説明した。第二弾の腕時計というのはつまり、現在、俺が左腕にはめている試作品のことである。
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